『沈まぬ太陽』を読んでいて、恩地元という人物に対して何度も浮かんだ疑問があります。
なぜ、ここまで会社に人生を振り回されながら、恩地は辞めなかったのでしょうか。
会社との対立によって海外勤務が続き、家族とは長く離れ離れになる。意味のある仕事を十分に与えられず、会社から自分だけ取り残されたような状況にも置かれる。
それでも恩地は辞表を出しません。
それどころか、赴任先でも自分から仕事を探し、会社員として結果を残そうとします。
私なら耐えられないと思います。
途中で組合活動から手を引くか、それでも状況が変わらないのであれば、会社を辞めることを考えるでしょう。
だからこそ、恩地の生き方を単純に「信念を貫いた立派な会社員」で終わらせず、なぜそこまで会社に残り続けたのかを考えてみたいと思いました。
母の死にさえ間に合わなかった恩地
恩地が会社に残ることで払った代償の大きさを考えるうえで、特に印象に残ったのがテヘラン赴任中に母の死を知らされる場面です。
赴任してまだ間もない恩地のもとに、母の訃報が届きます。
しかし、日本まではあまりにも遠い。
恩地は母の最期に立ち会うことができませんでした。
母は若くして夫を失った後、恩地と妹を育て、恩地を大学まで進ませた人物です。
息子が国民航空へ就職したときには、それまでの苦労がようやく報われたと感じていた。
ところが恩地が組合活動を始めると、ストライキや周囲からの目を含め、母は息子のことを心配し続けることになります。
そして恩地は、その母に十分な孝行もしないまま、最期にも立ち会えなかったと自分を責めます。
私はこの場面を読んで、かなりきついと感じました。
会社で出世できないとか、遠くへ転勤させられるという話だけなら、まだ「会社員人生の問題」として考えられます。
しかし、家族の死に目に会えるかどうかまで変わってくると、それはもう会社の中だけの問題ではありません。
もちろん、母の死そのものを国民航空の責任だと言うことはできません。
ただ、会社との対立によって恩地が遠い外国で生活していたことが、家族との時間に重大な影響を与えたことは、作中から読み取れます。
私もメキシコに行ったとき、離れている家族や身近な存在のことは気になりました。
もしその間に誰かを失ったら、と考えると、短期間でもかなり怖い。
恩地のような状況なら、自分は「もう十分だ」と思ってしまうでしょう。
恩地にとって、仕事を与えられないことも左遷だった
恩地が受けた苦痛は、遠い外国へ飛ばされたことだけではありません。
アフリカで仕事をする中で、恩地は、命懸けで打ち込める仕事を与えられている人間を羨ましく思います。
そして、やりがいのある仕事を与えられないこと自体に、強い苦しさを感じています。
ここは恩地という人物を理解するうえで、かなり重要だと思います。
会社員にとって、仕事が少ないことは一見すると楽にも思えます。
責任も少ない。
忙しくもない。
それでも給与が支払われるのであれば、その方がいいという考え方もあるでしょう。
しかし恩地はそうではありません。
自分が必要とされている感覚もない。
自分の力を使える仕事もない。
ただ組織の中に置かれているだけ。
その状態に、恩地はむしろ飢えるような苦痛を感じています。
この場面を読んで、左遷とは単純に「遠くへ飛ばすこと」ではないと思いました。
その人から、意味のある仕事を奪うことも左遷になり得る。
何のために働いているのか分からない状態に置き続ければ、勤務地や役職を変えなくても、人間を追い詰めることはできます。
自分自身も、上位部署から仕事を振られ、その意味合いが十分に分からないまま処理するだけになったとき、「これは何のためにやっているんだろう」と空虚に感じることがあります。
恩地の置かれている状況と同列にはできません。
それでも「意味を感じられない仕事の辛さ」という部分は、かなり分かる気がしました。
それでもアフリカで自分から仕事を作った
不思議なのはここからです。
そんな会社に対して、恩地は仕事を投げません。
アフリカのワンマン・オフィスに置かれても、自分から企業に働きかけます。
手紙を書き、接点を作り、国民航空の航空券を購入してもらえる可能性を作っていく。
少なくとも十人分の利用につながる見込みまで、自分で仕事を開拓します。
普通なら、
「会社が俺を干すなら、俺も最低限しか働かない」
となってもおかしくありません。
むしろ、その方が自然だと私は思います。
しかし恩地は逆でした。
何も仕事を与えられないのなら、自分から仕事を作る。
左遷先でも売上を作る。
作中では、その背景に会社への「意地」があることも描かれています。
私はこの姿勢を素直に格好良いと思いました。
会社が自分を評価しなくても、
仕事そのものまで会社に奪わせない。
そんな意地が見えます。
恩地にとって働くことは、会社へ忠誠を尽くすことだけではなくなっていたのではないでしょうか。
「こんな場所に追いやられても、自分は仕事ができる」
と示すことが、自分自身の尊厳を守る方法にもなっていたように感じます。
狩猟は恩地の怒りを逃がす場所でもあった
しかし、恩地が平然と耐えていたわけではありません。
会社への怒り。
長期間、妻子と離れて暮らす孤独。
自分だけが不当に扱われているという思い。
それらは恩地の中に確実に蓄積しています。
その感情から恩地を一時的に解放していたものの一つが、アフリカでの狩猟でした。
野生動物を追い、獲物へ全神経を集中させる。
その瞬間だけは、会社への憤りや家族と離れている孤独を忘れることができる。
恩地自身も、アフリカの自然や野生動物との出会いがなければ、自分の精神を保つことが難しかったかもしれないと感じています。
これは単なる趣味とは少し違います。
恩地が会社との長い闘いを続けるための、精神的な逃げ場でもあったのでしょう。
一方で、狩猟にはもう一つの側面があります。
会社への怒りが強くなればなるほど、獲物を撃つ行為と恩地の攻撃性が重なっていきます。
そこまで考えると、狩猟は恩地を救ったものでもあり、恩地の内側に溜まった怒りを可視化するものでもあったように思えます。
会社からの連絡を受け、スラム街を一人でさまよう
会社からの仕打ちが続く中、恩地はさらに追い詰められていきます。
航空交渉が打ち切られながら、自分の営業所だけはそのまま残される。
恩地からすれば、実質的に一人で切符を売り続けろと言われているような処遇でした。
怒りに震える恩地は、危険だと分かっているスラム街へ入っていきます。
別の場面では、娘から届いた救いを求めるような手紙と、会社から送られてきた非情な連絡によって心をずたずたにされ、一人で下町やスラムをさまよっています。
「会社はどこまで自分を追い詰めるつもりなのか」
そう感じるほどの状態です。
ここまで来ると、恩地と会社との関係を単なる「人事上の対立」と呼ぶだけでは足りない気がします。
仕事を奪い、家族から遠ざけ、将来の見えない状態に置き続ける。
本人が、自分を自暴自棄にさせるところまで追い込もうとしているのではないかと思うほどです。
私なら、この段階まで来る前に辞めると思います。
だからなおさら、「なぜ恩地は辞めないのか」という疑問が強くなりました。
剥製を撃ち抜くほど、恩地の怒りは膨らんでいた
恩地を「どんな逆境にも動じない硬骨漢」とだけ見ることができない決定的な場面があります。
酒に酔った恩地が、護身用のライフルを持ち出し、部屋に飾られた動物の剥製へ銃弾を撃ち込む場面です。
しかも、ただ無意味に撃つのではありません。
会社側の人物たちを一人ずつ思い浮かべ、それぞれを獲物に重ねるようにして引き金を引いていきます。
ある人物には一発。
別の人物には、簡単には死なない場所を狙う。
完全に復讐心が噴き出しています。
作中でも、この行動は狂気を帯びたものとして描かれています。
この場面はかなり印象に残りました。
なぜなら、それまでの恩地はどれだけ会社に腹を立てても、表面上は比較的冷静に振る舞ってきたからです。
仕事を投げるのではなく働く。
狩猟に出れば獲物へ集中する。
自分なりの方法で感情を抑えてきた。
しかし、その蓄積が限界に近づくと、剥製を会社の人間に見立てて撃つところまで行ってしまう。
ここまで会社に追い詰められながら残ることを、単純に「精神力が強い」で済ませてはいけないと思います。
恩地は耐えていた。
しかし、傷ついていなかったわけではありません。
むしろ、耐え続けたからこそ、その怒りが異常な形で噴き出したとも読めます。
なぜ恩地は辞めなかったのか
では、そこまで追い詰められた恩地は、なぜ会社を辞めなかったのでしょうか。
私は、一つの理由だけでは説明できないと思います。
まずあるのは、自分の信念を曲げたくないという気持ちでしょう。
恩地は組合活動を通じ、自分なりに正しいと信じるものを守ろうとしてきました。
会社から不利益を受けたからといって、自分から退けば、それまで貫いてきたものまで否定することになる。
次に、職業人としての誇りです。
恩地にとって仕事は、単なる給料の対価ではありません。
意味のある仕事を求め、仕事を与えられなければ自分で作る。
会社が恩地をどう評価するかとは別に、自分は仕事のできる人間であり続けようとしています。
そして、会社への意地や反骨精神もあります。
会社から冷遇されたからこそ、そこで結果を出す。
この逆説的なエネルギーが、恩地を働かせています。
さらに、ここからは私の解釈ですが、会社への強い執着もあったのではないかと思います。
嫌いなら辞めればいい。
外から見れば簡単です。
しかし恩地にとっては、国民航空との闘い自体が、自分の人生の一部になっていたのではないでしょうか。
自分から辞めれば、会社側の思惑通りになってしまう。
逃げれば負けたことになる。
そういう感覚も、恩地を会社につなぎ止めていたように私には見えます。
辞めなかったことを、恩地自身は後悔していない
恩地は後に、会社側の挑発に乗って辞表を叩きつけなくてよかったと振り返ります。
もしあのとき辞めていたなら、生涯後悔したかもしれない。
長い時間を耐え抜いた末に、恩地自身は「辞めなかった」という自分の選択に意味を見いだします。
これは大きいと思います。
外から見れば、
「そこまで酷い会社なら辞めればよかったのに」
と言えます。
私自身もそう感じます。
しかし、恩地本人にとってはそうではなかった。
辞めないという選択は、単なる我慢ではなく、自分自身の信念と結び付いていたのでしょう。
だから、後になってその選択を肯定できた。
ただし、これも「辞めずに耐えれば最後には報われる」という話にしてはいけないと思います。
恩地の選択は恩地自身の人生では意味を持った。
それと、現代の会社員が理不尽な職場に残り続けるべきかどうかは別問題です。
私は恩地を尊敬する。ただし、同じ生き方をしたいとは思わない
私は恩地を尊敬します。
自分が同じ立場なら、もっと早く折れると思うからです。
母の死に立ち会えない。
家族と離れ続ける。
意味のある仕事も奪われる。
会社から次々と理不尽な扱いを受ける。
それでも、仕事を投げずに自分から営業先を探し、自分自身の価値を証明しようとする。
そこまでできる会社員は、そう多くないと思います。
ただ、私は恩地と同じ生き方をしたいとは思いません。
剥製を撃ち抜かなければ感情を処理できないほど会社への怒りを溜め込み、危険なスラム街を一人でさまようほど精神を追い詰められてまで、一つの会社に残り続ける。
それを「信念があるから立派だ」とだけ評価することはできません。
恩地の強さは確かに格好良い。
しかし、その強さには危うさもあります。
私が恩地から感じるのは、
会社に残り続けたことへの尊敬ではなく、自分が正しいと思うことを、不利益を恐れて簡単には曲げなかったことへの尊敬です。
ここは大きく違います。
会社に残ることと、信念を守ることは、本来同じではありません。
会社にしがみつくことと、職業人としての誇りを持つことも同じではない。
恩地の場合、それらが複雑に絡み合っています。
だからこそ、『沈まぬ太陽』を読んでいると一つの問いが残ります。
会社員は、自分の信念を守るためにどこまで会社と闘うべきなのか。
そして、
会社との闘いが自分自身を壊し始めても、それでも残ることに意味はあるのか。
私なら恩地ほど耐えられません。
それでも、耐え続け、自分の仕事まで捨てなかった恩地を格好良いと思う。
尊敬と、「そこまでしなくてもいいのではないか」という疑問。
その二つが同時に残るところに、恩地元という人物の魅力があるのだと思います。


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